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虐待と差別に耐えて生きた結果

 




1 :名無しさん@ログイン中:2012/04/03(火) 14:51:43.02 ID:ACxhhyb8 ?2BP(0)
携帯からですが、書き溜めあります。


2 :名無しさん@ログイン中:2012/04/03(火) 14:53:55.12 ID:ACxhhyb8 ?2BP(0)
私の一番古い記憶は、喧嘩してる両親の声。

いつもリビングのドアから、一つ上の姉ちゃんと覗いてた。

父親が怒鳴る。

母親が叫ぶ。

そして父親が出てく。

いつもその繰り返し。


母親が父親にガラスの重い灰皿を投げた時は、姉ちゃんと必死に止めた。

父親は額から血を流しながら、すごく冷めた目で私達を見下ろしてた。

その目だけは、今でも忘れられない。


そして私が3歳の時に、両親は離婚した。

原因は、父親の浮気だった。

父親は すごく女たらしで、母親で二度目の結婚だった。

これは中学生になってから知ったんだけど、父親はその浮気相手の女と、私の4歳の誕生日に入籍した。

訴えて裁判とかしてたら、それなりに慰謝料も取れたんだろうけど、母親はそれをしなかった。


ただ手書きの誓約書?みたいなものに、『娘二人が成人するまで毎月養育費を払います』と書いて、父親に署名と捺印をさせてた。

両親が離婚しても、私はあまり寂しくなかった。

父親に可愛がられた記憶も、愛された記憶もなかったから。


3 :名無しさん@ログイン中:2012/04/03(火) 14:55:26.14 ID:ACxhhyb8 ?2BP(0)
離婚してすぐに、母親は夜の仕事を始めた。

給料はよく知らないけど、田舎のスナックだから そんなになかったと思う。

母親が色んなお客さんから貰ってくるケーキやお菓子のお土産が、すごく楽しみだった。


母親が仕事の間は祖母が私達を見てくれていたので、別に寂しくなかった。

だけど私は なぜか祖母に嫌われていて、いつも姉ちゃんばかり可愛がってた。

姉ちゃんと遊んだオモチャの片付けは、全部私がしてた。

時間を計られていて、少しでも時間を過ぎるとリビングの電気を消され、真っ暗な中で片付けが終わるまで閉じ込められてた。

だけど別に、悲しかった記憶はない。

ただ、祖母が嫌いだった。



姉ちゃんが寝てても、私は母親が帰ってきて、祖母が帰るまで私は寝なかった。

毎日、祖母が帰って母親と布団に入り、母親の寝息が聞こえたら静かに泣いてた。

祖母の事は、母親には言えなかった。

私が悪いと思ってたから。私がいけない子だと思ってたから。



それから姉が小学校に上がるとき、母親はスナックを辞めた。

そして親戚の伝で、お好み焼き屋で働き出した。

母親が夜に家に居てくれることが、もう祖母が家に来ないことが、本当に嬉しかった。





5 :名無しさん@ログイン中:2012/04/03(火) 15:01:02.02 ID:ACxhhyb8 ?2BP(0)
私も小学校に上がったけど、よくある『お父さんの絵』『お父さんの作文』『父の日のプレゼント』『運動会の親子種目』などで、悲しい思いをした記憶はない。

父親を『お父さん』だと思ってなかったから。



私が小学校一年生の夏休み、母親が私と姉ちゃんを連れ出した。

夜で、雨が降ってたのを覚えてる。

どこに行くのか知らされてなかったけど、車に乗ってるのが楽しくて、姉ちゃんとポケモンの歌を歌ってた。

しばらくして着いた場所は、父親と新しい奥さんの家だった。

記憶は曖昧だけど、すごく大きな家だった。


6 :名無しさん@ログイン中:2012/04/03(火) 15:01:48.86 ID:ACxhhyb8 ?2BP(0)
奥さんが玄関から出てきて、驚いた顔で父親を呼んだ。

奥さんの後ろから二歳くらいの男の子が覗いてて、私と姉ちゃんは暢気に『可愛いね〜』なんて言ってた。

この辺も曖昧なんだけど、いきなり母親が父親に土下座してた。土砂降りの雨の中、玄関の前で。

『お金を下さい』と。

奥さんは蔑んだ目で、私達三人を見てた。

そして父親は小銭がいっぱい入った瓶を、母親に投げるように渡した。

それを受け取ると、三人で泣きながら帰った。


7 :名無しさん@ログイン中:2012/04/03(火) 15:02:29.65 ID:ACxhhyb8 ?2BP(0)
帰りに近くのコンビニで両替を頼んだんだけど、やっぱり全部はしてくれなかった。

でも店員さんも何かを察したのか、限界まで両替してくれた。

帰り道は、ポケモンは歌えなかった。


まあ要するに、父親は離婚してから、初めの数ヶ月しか養育費を払ってなかった。

母親も自分の稼ぎだけでは無理になって、父親にお金を求めた。

それからも何度か父親に電話して、少しだけどお金を貰ったりしてた。

それから私が小学校3年生になった時、母親が手術のために入院した。

母親は幼い頃から耳が悪くて、真珠腫という病気だった。


8 :@ログイン:2012/04/03(火) 15:03:28.91 ID:ACxhhyb8 ?2BP(0)
は成功しど、母は左耳聴力を失った。

感覚がなくなり、め、吐き気どの症状で、母は車なく

親は事を辞め市営住宅に、生活保護の申請した

四ヶ月に一回の扶養で、服可愛い文房具を買てもらってた

みんな生活保護の話いだね。めんなさい



れからは親に連絡するともななり通に楽しく過ごしてた。

覚えてるのは小学校6年生の学旅

母にお小遣として一万円もらた。

母親れなかた。とい、なかっんだと思う


9 :名無しさん@ロイン2012/04/03(火) 15:04:06.28 ID:ACxhhyb8 ?2BP(0)
私に『少し残していてほしい』と言った

奈良と京大阪に行ったけど、家族と叔母お土を買って、七千円を残し

修学旅行が終わって、母親がえにくれた。

親は私お金を渡す、すぐに近所のーパーで食材や日用品を買ってた

しい、寂しい、辛い、情けない、可哀

私はよく持ちで、親を見て



六年生になれば、の中学校にたいという達が何人かい

私は自分でのもアレだけど、頭かった。

まあだし、平90点以上。


11 :さんログイン中:2012/04/03(火) 15:13:39.61 ID:ACxhhyb8 ?2BP(0)
私立の校に行きたかった

に相談したのまま して、面練習もした大丈夫て言わた。

家には、そんなない

ど行たくて、母親談した

断らると思たけど、母親は『全部のテストで95点以らいよ』と言った。

く嬉しくて、私は毎日必死に勉強し


何度も言うけど、小学レベ

強が好きな私は、次テスで全95点上取

先生んでくれ私は返ってきストを持って、スキッする勢いで家帰った。

親の顔をながら





12 :名無しさん@ログイン中:2012/04/03(火) 15:14:13.87 ID:ACxhhyb8 ?2BP(0)
まあ今思えば、そんなの親が子供を黙らせるための嘘だったんだけど。

満面の笑みで帰って、母親にテストを見せた。

母親は私の想像とは違う、焦った顔をした。

そして私に謝った。

『まさか本当に取れると思ってなかった。私立には行かせられない。』と。

私は『わかった』とだけ言って、自室に逃げ込んだ。

中学一年生の姉ちゃんは、塾に行ってた。

塾だってお金かかるのに、なんで姉ちゃんはいいんだろう。

母親も祖母と同じで、私の事が嫌いなのかな。


13 :名無しさん@ログイン中:2012/04/03(火) 15:18:30.23 ID:ACxhhyb8 ?2BP(0)
そんな事を考えながら、布団の中で泣いた。

これも今なら分かる。塾と私立中学じゃ必要な額が違う。

だけど小学生の私はそんな事分からなくて、姉ちゃんだけにお金をかけてるっていう事が嫌だった。

私は初めて、自分の育った環境が嫌になった。



それから私は、勉強する事をやめた。

中学生になって、私は少しグレた(笑)

煙草吸ったり、授業抜け出したり、些細な事だけど。

姉ちゃんは すごく真面目だったから、仲が悪くなった。

姉ちゃんと同級生のヤンキーの先輩に呼び出されてパシられたり、意味不明な言いがかりをつけられて殴られたり。


14 :名無しさん@ログイ中:2012/04/03(火) 15:19:49.39 ID:ACxhhyb8 ?2BP(0)
だけど私は、中途半端だった。

煙草吸てる使も出ないけど、みんなみたい業を妨したり、喧したり、免許で原付乗ったり、飲酒した味がなかった

んなが そんな事してる意味も分かなかった。

、美と音面目にけて。好きだったから。

からスの子もみんな仲してくれてたし、先生れてなか

小学校から知ってる子達は『授業出なよ』頭良のに』とか言ってくれてた

ど中学校の勉なんか、分かなくなってた。

それか、中二年になっ


15 :名無しさん@ログイン中:2012/04/03(火) 15:28:19.97 ID:ACxhhyb8 ?2BP(0)
二年生になったら、修学旅行がある。

私達の行き先は、東京だった。

だけど私は、行けなかった。お金がないから。

気付けば母親は、生保受給者によくいるパチンカスになってた。

姉ちゃんは二年生の時、修学旅行で沖縄に行ってた。

いっぱい写真撮ってた。いっぱいお土産買ってた。

小学校の修学旅行も、姉ちゃんはお小遣いを全部使ってた。

すごく楽しそうだった。羨ましかった。

私は、DQNで良かったと思った。

もし真面目にしてたら、修学旅行に行けないなんて恥ずかしい。DQNだったら『だるいから行かない』って、誤魔化せるから。


16 :名無しさん@ログイン中:2012/04/03(火) 15:36:57.29 ID:ACxhhyb8 ?2BP(0)
友達はみんな『一緒に行こうよ』って言ってくれた。

先生にも説得された。

『めんどくさい!』って叫んで、職員室から逃げた。

私だって修学旅行に行きたい。みんなでディズニーランドで遊びたい。いっぱい写真も撮りたい。

みんなに『お金がないから行けない』なんて、知られたくない。

みんなが修学旅行に行ってる間、私は家に引きこもった。

その頃は、受験生の姉ちゃんと毎日喧嘩してた。

修学旅行が終わって、みんな私にお土産をくれた。

笑ってお礼を言ってたけど、虚しかった。


17 :名無しさん@ログイン中:2012/04/03(火) 15:37:22.80 ID:ACxhhyb8 ?2BP(0)
そして夏になって、お祭りの季節。

私は、門限が厳しかった。

私の友達はみんな、門限なんかなかった。

DQNだから(笑)

門限がある子も、夏休みは暗くなるのが遅いからって、19時だったりした。

私は、一年中17時だった。

花火大会の日は延ばしてくれたけど、それでも19時だった。

花火が上がるのは20時から。当然、花火は見れない。

花火大会の日、私は『花火まだかな』って浮かれてる友達と別れ、一人で帰った。

そして家のベランダから、花火を見てた。

煙草も授業に出ないのも母親は知ってるのに、何も言わない。

なのに、門限だけ厳しい。




>>次のページへ続く


 

 

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